技術の使い道
今日は私の仕事に関する価値観について書いてみようかと思います。
私はエンジニア、技術者ですので端的に言うと「自分の技術を何に使うか?」という事になります。
タイトルにもう書いてしまってますし、最初に言ってしまいますと「世のため人のため」がその基準となります。
胡散臭い?
こう書くとけっこう胡散臭いですね(笑) いや、実際この世の中で声高にこんなこと言ってる人はだいたい裏があるので(偏見)、胡散臭いと言われてもしょうがない。
なので、ちょっと言い換えてみましょう。「どうせ自分の技術を使うなら、できれば世の役に立つことに使いたい、人に喜んでもらいたい」ならどうでしょうか?まだダメですかね?
そこに報酬とか見返りの話が入ってないのでそう思われるのかもしれません。であれば、さらにその辺りを補足してみましょう。
- 同じお金もらうなら、世のため人のために立つほうを選びたい
- 多少報酬が少なくてもそちらを選びたい
- 少なくても、と言っても流石に限度はある。家族や自分の生活は大事。
- 逆に報酬が一定以上になると、「これだけ払うから世の人は喜ばないことかもしれないけどやって欲しい」と言われてもやりたくない
というのではどうでしょうか。
報酬というのはあくまで一例ですので他の条件や基準はありますが、数ある条件の中でもプライオリティが高いのが「世のため人のため」だと言うことです。プライオリティが高いだけで、「人の役に立てるなら薄給も健康被害も辞さない」なんてブラックなことは全く思ってませんよ?
役に立つ?
では「役に立たない」ものには価値がないと思っているのか?というとそんなことはありません。基礎研究などはむしろ最優先で予算つけるべきだし、子供が「学校の勉強は役に立たない」とか言ったら懇々と諭します(これについてはまた機会改めて書ければと思います)。
あくまでも私個人の行動指針/仕事の選び方であり、自分がやりたいかどうかの判断基準であり、そこに善悪もなければこの価値観を一般化するつもりもさらさらありません。
とはいえ、技術者、特にソフトウェア技術者には同じようなことを言ってる人が結構いるようには感じています。
もう一つ大事な指針として「面白いか」というのもありますが、これはまた機会を改めて。
工学と理学の狭間で
あちこちでこの話はしているのですが、私がこういう価値観を持つに至ったのには父の薫陶が大きいと思います。
私の父は大学で工学部を出たあと、理学の道に転向して物理学の世界で生きてきました。
その父がよく「工学というのは基本的に世の役に立ってナンボ、物を作ってナンボの世界という側面がある。極論すると理論があってるかどうかなんてどうでもいいし、例えば強度計算の時に理論的には10で十分だけど安全性のために倍の20にしておこう、倍にする根拠はない・・なんてのも許される場合がある。これは理論の正しさを旨とする理学とは根本的に違うところだ」というようなことを言っていました。
細かいところや単語は違うかもしれないですし、工学の世界も理学の世界も色々な分野や立場がありますのでこれが全てではないですが、実学としての側面が他の学問よりも色濃くあるというのは間違いないのかなと思っています。
そのため、基本的に僕の中ではソフトウェア(情報工学)は理論も大事だけど世に出る物を作る、それが人の役に立ってナンボだ・・・という意識がずっとありました。これが今の自分の価値観に繋がっていると思います。
これまでとこれからと
これまで私はこの価値観に基づいて判断し、防災情報の配信と安否確認という仕事をしてきました。直接お客様やエンドユーザと接することで、自分の作ったものが喜んでもらえている、役に立っているという感触を得ることができ、大変充実していました。
これからはクラウドを使ってまた世の役に立つ仕事をしたい、人が喜んでもらえることをしていきたいと思います。
ちょうど先日弊社代表の小島が書いたブログがありますので、併せて読んでいただければと思います。
なお、この「これまで」と「これから」の間で私に何があったのかについてはどこかで書くかもしれませんし書かないかもしれません。
まとめ
作るものも使う道具も変わりますが、今後もソフトウェアの力で世のため人のためになる仕事ができればなと思います。
あと、「工学は云々」とか偉そうに言ってますが、修士号を取得するときに事務室から「修士(工学)と修士(情報科学)のどちらも出せるけどどっちがいい?」と聞かれて「"情報科学"の方がドスがきいてるからそっちで」なんて暴言を吐いた私にこんなことを述べる資格はないのかもしれません(色々台無し)